リハビリ人間のよろずブログ

誹謗中傷なんでもありです、寂しいので是非コメントしてください

水木しげる作『総員 玉砕せよ!』を読んで

現場の兵隊達は米国と戦う意義、気力を失っている。しかし彼らは戦場にとどまらないといけない。そして追い込まれた結果、集団自害を選択した。その行動原理の大元を特定するのは困難である。選択肢を奪われた軍隊がせめてもの誇りを守るため切腹見たく死んで行ったか。また言語化するのが困難な同調圧力からであろうか?

 

こんなにも死が身近にあるのにクーデターが起こらないのは大日本帝国の病理といったところでもあろう。

 

本書を素に我々は生死の表裏を身にしめて実感することになる。これは単なる漫画を越えた一種の哲学書であると言えるのではないか?

 


以上リハビリの足しになればと書いた駄文である、

中島らも作『今夜全てのバーで』

どれだけ順風満帆の人生を歩もうもしくは期待されても、誰も将来を保証しない。本作の主人公が良い証左である。作品内において主人公が丁々発止の会話を主治医と繰り広げられているが、主人公本人に嫌気があってもあこの懐の深い主治医がいなければ本作品は成立しないだろう。
他にも本作品の人物はみな饒舌である。他人と雑談することが苦手が私のような孤独の中での精神病は本当に辛いものがある。

 

川上未映子 作『全て真夜中の恋人たち』を読んで

この小説だけではなく各文学で恋愛感情を示す「好き」という言葉のなんとも微笑ましいことか。さらに本書のような良質な心理描写の中で綴られる「好き」は一入である。好きという単語の配置のタイミングは恋愛小説の評価の多寡を分ける。本書はだいぶん後半に入ってくるが。

私がそこまで「好き」という表現を好むのは他の曖昧模糊になりがちな恋愛感情の表現より明らかな直接性があり覚悟がいる表現であることであるからだ。この言葉を繰り出すシチュエーションを思い浮かべるが良い。好きな対象に自分の制裁与奪を委ねてるのが普通に理解できる。他者に表明することで自分の尊厳を委ねかねない、この大事な言葉を気安く発することが出来るのは心の底から対象を思っているか、よっぽど玄人で軽んじた者でありそいつの信用に欠格がつく。この言葉を表明することの覚悟を持つ資格がある市井の若者達の青春に羨望する。ただ本書においては重大な背反的な注釈がある。ここに出てくる登場人物はそれなりに多少、歳を経過している。まぁそんなことどうでもいいが

最後に少し憎たらしい指摘になりうるが三束が 小説のキーパーソンとして肯定的に君臨するのは間違っているのではないか?。冬子はまんまと三束の三文芝居に乗せられてしまうが、ちょっとした沈思をすると三束のデタラメに容易に気づくはずである、三束はまだ若さの残る冬子に誠意をもって居たからいいものの、この推しの弱い冬子に三束的存在が悪手を伸ばす恐れは十分あるはずである。

有川浩作 『阪急電車』を読んで

比較的細かく、章立てされていてだいたいその章ごとの主人公が狂言回しとなっている。そしてその短い章ごとで主人公の廻りで起こる連鎖的な運命的事象をそれぞれ物語化している。この物語はその制約上、短編を集めたストーリーを繋ぎ合わせ長編となっている。わたしとしては阪急沿線の持つ沿線の香りを感じとれてよかった。ただ話として面白いので許容できるのだがこの章ごとにその短編の主演をつとめるキャラクターが変わるので登場人物を追うのが難儀であった。こんなにキャラクターを出すのならもう少し長編にした方がいいのではというのが悪い読者の言いがかりである、

安藤忠雄著「建築を語る」を読んで

 安藤の建築感をあくまで憶測で言うと、建築というものはその場で何年もの歴史を刻みその土地に定着していくものであり、安藤自身の建築物は単なる製造工業品ではないし望んでいないということである。その責任を果たすために、安藤自身が仕掛け人として全面的に計画案の矢面に立ち、周囲の期待に答えるよう、斬新な新築物件にエネルギーをそそぐ。それは初期設計の構想段階でオーナーと建築士の交渉から始まり、完成に至るまでの現場代理人や職人まで全てのステークホルダーと調整を重ねる。そこでは初期段階の設計から終盤の設備の収まりという制約の過程で、あえて解釈の余地を残した建物がどんな物語を紡ぎだすか、考察してそこから生まれる偶然性が機能性や芸術性を高めているのだなと思った。わたし自身の経験でもあるが、実際零細設備屋の設備に回ってくるまで色々変更が加えられていくなか建築の当初案に変更が数多く存在するものである。そこでの元請けとの調整、図案変更など構築されるコミュニケーションは熱気がこもっている。

 

話は変わるが安藤は日本の建築物は平面であり、欧州は立体であと述べている。そして意識的に母国である日本に地下にその立体的空間を広げるという手腕を多く活用している。


ただそのような取り組みにもかかわらず安藤は日本的な建築家と言われている。わたしは安藤の実際の建築を見た事ないので当てずっぽうだが谷崎潤一郎の陰翳礼讃的なものなのかなぁと愚考を展開して見る。

政治スタンスの脆弱性

自国が他国にあらゆる手段で凌辱され続ける状況の中、私は暴力を伴う愛国心に傾倒してしまうのだろうかと自問自答してみる。私は本来なら国家権力の暴力性に拒否感を持ち戦争に強く反対する立場なのだが、他国から国民としての尊厳を傷つけられた際、その反抗として自国の暴力に自身を委ねてしまうかもしれないなと思ってしまうのである。

 

昨今のイランの状況を見ていると、その心境に至るのだ。代理勢力や自軍が為す術もなくだんだんと追い込まれている中、仮に自分がイラン国民だったら平静でいられるのだろうか。

 

イスラエルが欧米において強い影響力があり、米国からもイランに軍事介入されてる苦境が続く中、イラン国民は何をよすがにイラン国民として日々の生活を送っているのだろうか?私がイラン国民だったらどうだろうか?イスラエルに対し政府はより強行的な姿勢を主張するだろうか?それともハト派的なスタンスを堅持することができるだろうか?この辺の私自身の主張は自身の置かれた環境によってどうにでも変わるかもという脆弱性が自身に内在する。

 

私たちは似た環境に置かれていた国家を知っている。日本国の前身国家である大日本帝国である。大日本帝国は軍事国家として列強と対峙するため、八紘一宇というフレーズを用いたプロパガンダを行い戦意の醸成の種を国民にまいた。最終的な運命は自身の退路を失い世論の暴走を恐れた日本はアメリカと交えることになる。その辺の正否は微妙だが。いずれにせよ政府が暴走した過去を持つ国が母国の人間としては、果たして今後のイランの外交政策はどの方向に向かうのだろうかと注視し続けないといけないと思う。

新建築2024年4月号別冊/時をつむぐ 竹中工務店のレガシーデザイン を読んで

建設資材の高騰や人手不足により、建築コスト全体の高騰をもたらしている。それにより再開発計画の規模縮小や計画自体の見直しが昨今の建設業界のトレンドである。

 

そういった中、本号では竹中工務店が携わった古建築の修繕やそれをベースにした改築を特集しており、東京を中心に久しく続いている超高層ビルの新築とは違った視点で竹中工務店は建築物の価値の底上げの一手を指しているのだと思う。

 

繰り返しだがいたずらに超高層ビルを建ててデベロッパーに手渡す従来の手法が限界に来ている中、内装の妙や元の建築物を生かした外観の洗練さに磨きをかけることがゼネコンの新しい生き残りの手法であると感じた。

 

ゼネコンが物件を取得し改築しその価値を向上させるという手法は私なりのいい加減な理解(読み間違いがあるかもだが)だが事業再生ファンドを連想する。そこに今後のゼネコンの趨勢を垣間見ることができるのではないだろうか?ここには従来の不動産デベロッパーの目には届かない物件でも施行と設計が高度に一体化したスーゼネの強みを利用することにより価値向上が実現される期待がある。

 

竹中工務店の自社ビルである御堂ビルは築年数が経っているがまだまだ現役で施設内においてはスタイリッシュな改築を積極的に行っている。

 

御堂ビルという作品は竹中工務店の本社ビルを活用したモデルルームのようなものではないかと想像する。これから老朽化していく建築物に対してそのソリューションとして御堂ビルがあるだろうし、他にも本誌で取り上げられている様々な物件もそうなのだろうと思う。