高名な憲法学者が憲法の役割や立憲主義における立ち位置などを初学者にも分かりやすく解説した本である。初版は2006年とだいぶ古いがその当時より、憲法改正の機運が徐々に高まっていたのを記憶している。
本書の主な主張は憲法の硬性性を訴え、無闇な憲法改正の危険性を指摘しているという所だろうか?本書では法学者らしく精緻で論理的な議論が展開されていて、読者にも著者の主張の正当性を確認することができるだろう。
しかし物事は表裏一体である。浅学ながら偉そうなことを言うと私は法学の特徴はその対象の解釈がある程度自由にできるということにあると思う。例えば集団的自衛権を日本国憲法から容認することからも私の主張に援用することが出来ると思う。
そのある程度、自由な世界を規律づけるのは一体何であろうかと言うと、司法であったり大学の権威であると思う。本書においても自らの主張を肉づけるために高名な学者の説を引用している。確かに説得力を感じるし私も支持するものであるが前述の通り理論的な反論も可能であると感じた。
ここで僭越ながら私の憲法改正に対して持論を述べたいと思う。専門の方からしたら噴飯物だろうが素人ならではの考えもあるかと思う。
憲法改正は特に保守派が主張しリベラルは護憲的立場から反対を表明している。しかし、私はリベラル派も積極的に憲法改正の議論に立つ方がいいのではないかと思う。
その根拠が、日本国憲法のそもそもの正当性である。厳密なことはしんどいので間違っているのが前提だが、日本国憲法の前の憲法である大日本国憲法は天皇主権が謳われており、それが基本的原理であった。その憲法から国民主権を基本的原理とする日本国憲法への改正というのは本来ならば出来ないらしい。
そのため日本国憲法の正当性を付与する通説として八月革命説が導かれた。八月革命説の詳細については芦部信喜の憲法を参照して頂きたいが、要するにポツダム宣言の受諾によって一種の法的な革命が起こり政治体制が根本的に変化したとみなす説である。
この通説は法学者の間では受け入れられてるのだろうが一般的な革命という用語からイメージするものと、実際の事象とは違うのではと素人は思ってしまうのではないだろうか。革命とは非支配階級が支配階級の体制を転覆するイメージがあり、語義においてもそのように認識されてるだろう。実際には、その当時の国民は竹槍をもって本土決戦に備えていて反体制派が何かやり遂げたという歴史的事実は無いし、そもそもポツダム宣言を受諾したのは昭和天皇の聖断からである。
以上から八月革命説を支持しない私にとっては日本国憲法というのは正当性に疑問があり、そもそも法規範として弱いものであると思うし、改正派に攻撃を与える余地があるとも思うのである。
戦後、日本国憲法は押付け憲法であるとして、保守派が改正の取り組みをしたり大日本国憲法への復憲運動も展開された。それは復古的でもあるが同盟国のアメリカにとっても都合がいいものであろう。一方、憲法学者を始めとする護憲派は守勢に回らざるを得ない状況が続いていた。このままいくとこの弱い憲法が死文化してしまうか、危機を煽り改正派にとって都合のいい憲法が生まれる可能性もある。
そこで発想を転換して見よう。例えば護憲派は積極的に憲法改正の議論に加わることによって、反戦、人権を重視する日本国憲法の理念を守ることができるかもしれない。
改憲議論を盛んにすることはむしろ護憲派にとってもメリットがあるだろう。
例えば我々一般市民に、立憲主義とは何か、人権とはなにか、日本国憲法にこめられた反戦のメッセージ?を再考することが出来るだろう。
憲法改正に向けての議論は盛んになり極端な議論も散見されるだろうが私はあまり悲観していない。それは私が大学時代に憲法学の講義を受けた経験による。彼ら彼女らは、厳しい訓練を受け、厳格な論理性を育んだプロであり、説得力のある提言を市民に提供してくれるだろう。
また日本国憲法の基本的理念は国民主権であり、それは改正不可能であるが憲法9条も成立経緯を踏まえると極めて改正困難であると私は思う。それはマッカーサーが憲法改正に要求したマッカーサー三原則に戦争放棄が示されており、この基本原則を変えることは日本国憲法の主旨に反していると言えるからだ。
ここまでの議論は稚拙であり反論の余地はあろう。しかし私は日本国憲法をあえて過去の遺産とすることでその憲法の正当性を与えることになり国民主権、戦争放棄の理念がより強固になるだろうと思うのだ。